FIRE系の動画や書籍を読んでいる。また、年齢を上になるにつれ、自分と社会の距離感なども気になる。本書は、以前から読んで気にいったいた中野孝二『清貧の思想』と同様の思想の書籍である。
石田吉貞『隠者の文学』講談社学術文庫
隠者と隠者文学、隠遁、西行、長明、兼好、連歌と話しが進む。
隠者文学といっても、西行の関心は自然にあり、長明の関心は自分の閑寂で自由な生活にあり、兼好の関心は人間にあるという。
平安初期の隠者は、僧侶が多く、宗教への信仰のため隠遁生活にはいった。信仰一途の隠遁形式で、その生活はすさまじく、人間的な生活を遺棄したものになった。時代を経て、信仰とともに美的な要素が取り入れられ、美的隠遁ともいうべきものが生まれてきた。信仰と美の2本立ての隠遁形式である。
美的隠遁の到達点として、閑寂な生活、さび系の美の把握、美的安心とする。
美的隠遁生活の到達的の1つは、閑寂である。
「閑寂とは、閑(しずかさ)、自由、美、宗教的真実から成立する。」
「このようにして、隠遁における閑寂は、世にも稀なよき生活として打ち立てられた。閑かして、適当なるさびしさや悲しみをもち、大空の雲のような自由があれば、一方には、宇宙のあわれを感ずるほどの繊細な美をもち、しかもその底には、つねに永遠への思念や絶対への祈りがあった。」
「しかし、閑寂に限界があった。...閑寂がいかによき生活であっても、しかし、畢竟遊びだであり、そのなかに安んじては、永遠や絶対に参する生命の真実は得られない。」
そこで隠遁者は隠遁の中にいつつも、その外にでようとした。それが、信仰と美の追求となった。
隠遁者は、激しい孤独と中世的な無常観により深刻な苦悩を負うこととなる。そのとき、一人の天才が、そのような苦悩を超凡な美の把握がすべての苦悩を解決することを予見した。西行はそのような天才であった。そして、そのような美をもとめて、生涯を詩の漂白に送った。
「心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」
「津の国のなにわの春は夢なれや蘆の枯葉に風わたるなり」
さび系の美は、孤独と無常にさいなまれる隠遁者が命がけで把握したものだが、この美には複合的に把握したものである。第1に隠遁者には周囲の自然が、「さびしき美」として受け止められていた。「さびし」は一つの深い美である。西行にはそのようなさびしき美の歌が無数にある。水の音、ひぐらしの音、一つ一つが魂をかきむしるほどのさびしき美であった。
第2に目に触れる自然が限りない無常の美として捉えられた。散る花、落ちる葉、一事一物に無常を感じる。
「このさびしき美と無常の美が一つになるとき、個物の上に、すなわち一木一草の上に、何とも言えない深い美が感じられる。道端の秋草、空行く雲、廃園の落葉、夕暮れの雨、それらに限りない無常寂寥の美が感じられ,詩美をもつ隠遁者は、それだけでもある点は孤独の苦痛を忘れ、多少なりとも魂の平安を取り戻すことができただろう。」
しかし、これだけは、さび系の美は生まれない。
しかし、隠遁者は、無常観を抱き、絶えず、万有・永遠・存在を思い、この世の真の姿や万有の真の姿を思い、生死の行方や歴史の行方を思った。もし、個物の中に無常やさびしさを感じる美の中に、永遠や万有の姿を感じることができるならば、信仰と美の一致が深い美の底において完成するからである。
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