ハインラインの『月は無慈悲の女王』を読んでいて、宗教、 思想系の本を調べた。
『月は無慈悲な女王』
異星の客 (創元SF文庫) (創元推理文庫 618-3)
邪宗門 下
大地の母―第1巻(青春の詩)
大地の母―第2巻(霊山の秘 )
ハインラインの『月は無慈悲の女王』を読んでいて、宗教、 思想系の本を調べた。
『月は無慈悲な女王』
エピクテトスの本に興味があることと、ミシェル・フーコーの『フーコー・ガイドブック』を読んでいて、『主体の解釈学』で古代のギリシャ哲学者の修練の話に興味が出てきた。
http://www.arsvi.com/b2000/0100fm.htm
■Foucault,Michel 2001 L'hermeneutique du sujet Cours au College de France. 1981-1982,Seuil/Gallimard
=20040205 廣瀬 浩司・原 和之 訳 『コレージュ・ド・フランス講義 1981-1982年度 主体の解釈学――ミシェル・フーコー講義集成XI』,筑摩書房 634p. ISBN-10: 4480790519 ISBN-13: 978-4480790514 \6720 [amazon]/[kinokuniya] c0192
■内容(「BOOK」データベースより)
西欧の歴史の中で、「主体」が、いかに変形をこうむって来たか―プラトンを端緒として、ストア派の哲学者やキリスト教の教父たちの思想を中心に「自己への配慮」の系譜を追究し、「真理」および「ロゴス」の問題そのものをも問う。フーコーの思想展開を考える上で決定的に重要な講義。
■訳者紹介
広瀬 浩司(ひろせ・こうじ)
1963年東京に生まれる。東京大学教養学部教養学科卒業。同大学大学院総合文化研究科博士課程中退。パリ第一大学博士号(哲学)。筑波大学現代語・現代文化学系助教授。
原 和之(はら・かずゆき)
1967年出雲に生まれる。東京大学教養学部教養学科卒業。同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程単位取得退学。パリ第四大学博士(哲学史)。電気通信大学専任講師・助教授をへて、現在、東京大学大学院総合文化研究科助教授。
■目次
緒言
1981―1982年度講義
1982年1月6日の講義 第一時限
全般的な問題系についてのまとめ。主体性と真理――新しい理論的出発点。自己への配慮――デルフォイの信託「汝自身を知れ」のさまざまな解釈――配慮の人としてのソクラテス。『ソクラテスの弁明』からの三つの抜粋の分析――古代の哲学的・道徳的生活の戒律としての自己への配慮――初期のキリスト教文献における自己への配慮――一般的な態度、自己に対する関係、実践の総体としての自己への配慮――近代において自己への配慮が省みられなくなり、それに自己認識がとってかわったこと。近代的道徳。デカルト的契機――グノーシス派という例外――哲学と霊性
1982年1月6日の講義 第二時限
霊性の諸要請がひきおこした摩擦。デカルト以前の科学と神学。古典哲学と近代哲学。マルクス主義と精神分析――スパルタの格言。身分と結びついた特権としての事故への配慮――プラトンの『アルキビアデス』の最初の分析――アルキビアデスの政治的要求とソクラテスの介入――スパルタの若者およびペルシャの王子の教育と比較したアルキピアデスの教育――『アルキピアデス』において自己への配慮の要請がはじめて登場する際の文脈設定。政治的要求。教育上の不足。境界年齢。政治的な知の不在――自己のはっきりしない性質と、その政治的な含意
1982年1月13日の講義 第一時限
自己への配慮というソクラテス的命法が登場する文脈。良家の若者の政治的能力。アテナイの(学校そして恋愛による)教育の限界。無知であることを知らぬ無知――ギリシア古典期における自己の変容の実践――ピュタゴラス主義における夢への準備と試練の技法――プラトンの『フォイドロス』における自己の技術(テクノロジー)――ヘレニズム哲学におけるその重要性――『アルキビアデス』における、配慮すべき自己の存在の問題――自己を魂として規定すること――行動の主体として魂を規定すること――養生術(ディエテティック)、家政術(エコノミック)、恋愛術(エロティック)との関わりにおける自己への配慮――配慮の師の必要性
1982年1月13日の講義 第二時限
『アルキビアデス』における、自己認識としての自己への配慮という規定。プラトンの作品における二つの命法の競合――眼の隠喩。視覚の原理と神的要素――対話篇の終わり。正義への配慮――対話篇の真正性およびそのプラトン主義への関係の問題――政治行動、教導、少年愛とのかかわりにおける『アルキビアデス』の自己への配慮――プラトン主義で自己への配慮がたどる運命の『アルキビアデス』における先取り――『アルキビアデス』の新プラトン主義的後裔――ブラトン主義の逆説
1982年1月20日の講義 第一時限
『アルキビアデス』から起源一-二世紀にかけての事故への配慮。大きな変化――epimeleiaに関する語彙論的研究――表現の布置――自己への配慮の一般化。生存の全体との共外延性という原則――テクストの読解。エピクロス、ムソニウス・ルフス、セネカ、エピクテトス、アレクサンドレイアのフィロン、ルキアノス――この一般化の倫理的な帰結。人格形成と矯正の軸としての自己への配慮――医術的な活動と哲学との比較(共通の諸概念。治療目的)
1982年1月20日の講義 第二時限
老年の特権(生存(エグジスタンス)の積極的目標にして理想的な地点)――自己への配慮という原則の一般化(万人向けのものとなった自己への配慮)と教団(セクト)的な現象の説明――関係する社会層。礼拝する庶民から、ローマ的友愛の帰属低ネットワークまで――さらに二つの事例。エピクロス派のサークルとテラペウタイ派の集団――法のパラダイムの拒絶――二重分節の構造的原理。呼びかけの普遍性と選出の希少性――救済の形式
1982年1月27日の講義 第一時限
一世紀から二世紀にかけての自己の実践の一般的な正確――〈他者〉の問題。プラトン対話篇における師弟関係(メトリーズ)の三つの型――ヘレニズム期とローマ期。主体化の師導(メトリーズ)――セネカにおけるストゥルティティアstultitia(迷妄)の分析――主体化の師としての哲学者――ヘレニズム期の制度的形式。エピクロス派の学校とストア派の会合――ローマの制度的形式。生存の私的な忠告者
1982年1月27日の講義 第二時限
一世紀から二世紀にかけての職業哲学者とその政治的選択――プリニウス『書簡集』のエウフラテス。反犬儒派――社会的実践としての学校外の哲学。セネカの例――フロントとマルクス・アウレリウスの往復書簡。生存の指導における養生法、家政学、恋愛術の体系化――良心の吟味
1982年2月3日の講義 第一時限
『アルキビアデス』の新プラトン主義的解釈。プロクロスとオリュンピオドロス――政治的なものとカタルシス的なものの新プラトン主義的分離――プラトンにおける自己への配慮と他者たちへの配慮とのつながりの研究。合目的性。相互性。本質的含意――一世紀から二世紀にかけての状況。自己の自己目的化――その帰結。回心=立ち返り(conversion)の原理に向けて秩序づけられた、哲学的な生の技法。自己の陶治の展開――救済という考え方の宗教的な意義――soteriaとsalusの意義
1982年2月3日の講義 第二時限
聴衆からの質問。主体性と真理をめぐって――自己への配慮と他者たちへの配慮。関係の逆転――友愛のエピクロス的な捉え方――共同体的存在としての人間というストア的な捉え方――〈君主〉の誤った捉え方
1982年2月10日の講義 第一時限
自己への配慮が教育および政治の飛び地でなくなったこと(デザンクラーヴマン)――自己の自己目的化のさまざまな比喩――実践的図式の発明。自己への立ち返り(コンヴェルシオン)――キリスト教のメタノイアとその自己への立ち返りとの関係――古典ギリシア時代におけるメタノイアの意味――第三の道の擁護。プラトンのエピストロフェーとキリスト教のメタノイアのあいだ――視線の転換(コンヴェルシオン)。好奇心の批判――運動選手的な集中
1982年2月10日の講義 第二時限
一般的な理論的枠組み。真実の語りと主体化――犬儒派における世界の知と自己の実践。デメトリオスの例――デメトリオスにおける有用な認識のもつ特徴――エートス制作的(エトポイエティック)な知――エピクロスにおける自然研究(フュシオロギア)的な認識――エピクロス派の自然研究者(フィジオローグ)のパレーシア
1982年2月17日の講義 第一時限
自己への配慮の到達点としての自己への立ち返り――航海の比喩――統治性の範例としての操舵術――自己回帰の倫理という概念。キリスト教の拒否と近代の試みの挫折――政治や法的主体に対立するものとしての統治性と自己への関係――自己認識の原則なき自己への立ち返り――それを隠蔽する二つのモデル。プラトン的想起とキリスト教的釈義――隠れたモデル。自己へのヘレニズム的な立ち返り――ストア派思想における世界認識と自己認識――セネカの例。ルキリウス宛書簡における文化批判。『自然研究』における視線の運動
1982年2月17日の講義 第二時限
『自然研究』第三部序説の分析の終り――第一部の序説の研究――セネカにおける、認識する魂の運動。記述。一般的な特徴。反作用――結論。自己認識と世界認識の本質的な意味。世界の知の解放的な効果。〔セネカのモデルは〕プラトン的モデルに還元できないこと――俯瞰的視点
1982年2月24日の講義 第一時限
マルクス・アウレリウスにおける、知の霊的な様態化――表象の分析という作業。定義することと記述すること。見ることと名付けること。評価することと試験すること。魂の偉大さに至ること――エピクテトスにおける霊的な訓練の例――キリスト教的釈義とストア派の表象の分析――マルクス・アウレリウス再考。対象を時間において解体する訓練。対象を物質的構成要素に分解する訓練。対象の縮減的記述の訓練――霊的な知の概念構造――ファウストという形象
1982年2月24日の講義 第二時限
アスケーシスとの関係における徳――マテーシスにおける主体の客観的認識への参照の不在――アスケーシスにおける法への参照の不在――アスケーシスの目標と手段――パラスケウエーの特徴。出来事の格闘家としての賢者――パラスケウエーの内容。行為としての言説――この言説の存在様態。プロケイロン――主体を〈真実を語ること〉への合体する実践としてのアスケーシス
1982年3月3日の講義 第一時限
キリスト教の修練と哲学の修練の分離――主体化の諸実践。聴取の訓練の重要性――聴取の両義的性格。受動性と能動性の両義性。プルタルコスの『聴くことについて』。セネカの書簡第108。エピクテトス『語録』第2巻第23章――テクネー以前の聴取――聴取という修練の規則。沈黙。よき聞き手にふさわしい的確な身振りと一般的態度。注意(言説の指示対象への執着と直接的な記憶化による言説の主体化)
1982年3月3日の講義 第二時限
よき読書の諸規則とその目的の指示。省察(メディタシオン)――主体に対する思考の働きとしてのmelete/meditatioの古い意味――言説の体内化という身体的訓練としての書くこと(エクリチュール)――主体化と真理の語りの循環としての文通――キリスト教的霊性における語りの技法。指導者の真実の言説の諸形態。被指導者の告白。救いの条件としての自己についての真の語り――ギリシア・ローマにおける指導の実践。被指導者の注意深い沈黙による真理の主体の構成。師の言説におけるパレーシアの義務
1982年3月10日の講義 第一時限
師の言説における倫理的態度および技術的手続きとしてのパレーシア――パレーシアの敵。追従と弁論術――権力の新たな配分(エコノミー)における追従と怒りの主題の重要性――例。セネカ『自然研究』第4巻序説(権力の行使、自己関係、追従の危険)――君主の脆弱な智慧――パレーシアと弁論術(レトリック)の対立点。真理と虚偽の分割。技法(テクニック)の位置。主体化の効果――パレーシアの肯定的な概念化。フィロデモス『パレーシアについて』
1982年3月10日の講義 第二時限
パレーシアの分析の続き。ガレノスの『魂の情念について』――セネカにおけるパレーシアの特徴。庶民的で誇張的な雄弁の拒否。透明さと厳密さ。有用な言説の体内化。推定的な学問――リーベルタースの構造。思考の完璧な伝達および主体の言説における契約。――教育と魂の教導。ギリシア・ローマ哲学とキリスト教におけるその関係と進展
1982年3月17日の講義 第一時限
ピュタゴラス主義の沈黙の規則の意味に関する補足的説明――「修練的なもの」の定義――ギリシアの「修練的なもの」の歴史的エスノロジーの見取図――『アルキビアデス』再考。「修練的なもの」が、神的なものの鏡としての自己認識に折りたたまれること――一-二世紀の「修練的なもの」。二重の離脱(自己認識の原則に対して。神的なものにおける認識の原則に対して)――ヘレニズム・ローマの「修練的なもの」のキリスト教的運命の説明。グノーシスの放棄――生の作品――生存(エグジスタンス)の技法。二つの領域の解説。思考による訓練、現実の状況における鍛錬――節制の訓練。プラトンにおける格闘家的身体およびムソニウス・ルフスにおける耐える身体――試練の実践とその諸特徴
1982年3月17日の講義 第二時限
試練としての生そのもの――セネカの『神慮について』。生存することの試練とその差別的機能――エピクテトスと偵察者としての哲学者――悪の変容。古代ストア派からエピクテトスまで――ギリシア悲劇における試練――救済というキリスト教的な教義に、ヘレニズム的な生存の準備が無関心であったことについての指摘――生の技法と自己への配慮。関係の逆転――この逆転の表徴。ギリシア小説における純潔=処女性の主題
1982年3月24日の講義 第一時限
前回の講義の復習――プラトンの『アルキビアデス』および一-二世紀の哲学文献における自己による自己の把握。比較研究――西欧における反省性の三つの大きな形式。想起、省察(メディタシオン)、方法――現代西欧哲学の歴史記述の幻想――省察という訓練の二系列。真理の内容の試練、真理の主体の試練――ギリシアにおける未来への投影の価値の貶め。記憶の優位、未来の存在論的・倫理的空虚――ストア派における、準備としての災悪の予期――災悪の予期という試練の諸段階。可能なもの、確実なもの、切迫するもの――未来の閉鎖と実在性の縮減としての災悪の予期という訓練
1982年3月24日の講義 第二時限
死の省察という訓練。矢状で回顧的な視線――セネカとエピクテトスにおける良心の吟味――哲学の修練――生の技術(ビオテクニック)、自己の試練、世界の客観化。西欧哲学の挑戦
講義要旨
講義の位置づけ
解説
*作成:石田 智恵 更新:
まずはSF
ニール・スティーブンス
『スノウ・クラッシュ 上』ハヤカワ文庫
『スノウ・クラッシュ 下』ハヤカワ文庫
引用
『...ハッカーの物語であるが、世界がいかにハックされうるかである、...』
FIRE系の動画や書籍を読んでいる。また、年齢を上になるにつれ、自分と社会の距離感なども気になる。本書は、以前から読んで気にいったいた中野孝二『清貧の思想』と同様の思想の書籍である。 石田吉貞『隠者の文学』講談社学術文庫 隠者の文学―苦悶する美 (講談社学術文庫) 隠者と隠者...