2016年3月7日月曜日

朝カルでの生 と死の象徴 「仏教3.0 3回目」と『イニシュマン島のビリー』の世界」アイルランドの孤島の物語

新宿朝カルの仏教3.0 3回目の講座に行く。
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/e1075110-ae00-feda-6855-563b3b570859
こちらの講座は相変わらずの満員だが、同じ時間帯に満員の講座があった。そちらの教室はちょうど反対側。いつになく若い女性層の受講者が多数。
なんの講座か?と思って調べると
「『イニシュマン島のビリー』の世界」アイルランドの孤島の物語
俳優 古川 雄輝 演出家 森 新太郎
だった。仏教3.0のテーマは「死」で年齢層も高いが、『イニシュマン島のビリー』の世界
は年齢層も若く、女性層が多いせいか。 死と生の象徴性を感じた。教室も対極だった。
それはともかく仏教3.0は、前半は今までのまとめ、後半は「死」について
永井先生が配布された資料には<私>と「私」の定義、死についてはハイデガーとオスカー・ベッガーの言葉。
前半キーワード。
虚偽意識、非本来的・本来的、
<私>と「私」(永井先生)、青空としての私・雲としての私(山下良道先生)
心の2相論(小心と大心、妄心と真心)(藤田先生)
イソップ物語だったか旅人と北風と太陽の童話。
<私>と「私」の関係は、全てか無の関係。(存在論的意味)
永井先生どちらが上とかいう価値判断はしない。この成立のあり方を見たい。
意識の内在的世界から超越的世界を構成(カント、フッサール)
煩悩(増殖する物語)と無 明(物語を生み出す基盤)
主客図式との違い
縦の話(主客図式・近代哲学)
横の話(<私>と「私」の関係、20世紀ヴィトゲンシュタインから)
ヴィトゲンシュタインのチェスの比喩(冠を被ったチェスの駒)
チェスのルールはあらかじめ存在して機能している、冠を被った<私>は主体であるが
存在しなくてもチェスには影響はない。(媒介 項なしの)全即無の関係。
今の話。<今>と「今」
内山老師、自己切りの自己。
後半の内容。
永井先生の講義、配布資料による。
ハイデガー:アリストテレス以来は存在論は問題にしていなかった。
重要なことは、私の存在に目覚めるべきだ、ということ。
死だけは他人に代わっておこなうことはできない。死だけ存在がなくなってしまう。
そのほかのことは機能。このことに気づいているのは本来的自己、気付いていないの
非本来的自己。
オスカー・ベッガー
自己固有という意味では本来的だが、根源的とはいえない。
宇宙的な永遠の現在。本来的ではないが根源的である。
無我的で死を気にしない生き方。無我的根源性。日常性はここからの凋落状態。
平均的世人というより、独自性はあっても物語性は独自性しかない。
永井先生は、この無我的根源性からみると、独我論的=無我的 根源性と読む。
独我論的=無我論的観点からみると私はしなない。というより死ねない。
ゼノンのパラドッテクス。
アキレスは亀よりはやい。この仮定だけでは追い越せない。途中でどんどんおそくなってくるかもしれないし、地面がのびるかもしれない。空間や時間の 仮定がないかぎりこの
パラドックスは成立する。
<私>はその存在がいつか終わるものではない。時間的にもすべてであり、無である。
とはいえ、普通の意味では永遠に存在しつづけるという意味ではない。
等質的時間や等質的空間を前提にしないとアキレスは亀を追い越せない。
同様にして、私は死という亀を追い越せない。
独我的=無我的世界像の外部の平板な世界感を前提にしないと私は死ねない。

山下先生の話
机が存在しない→机に対する感情に対処する
2障(煩悩障、所知障)
道元の師匠にあたる人は五蓋に無明蓋を加え六蓋
実存主義的な世界
1人称の死、2人称の死、3人称の死(落命)
今と私の関係
世界を複数化する方法

哲学探求とともにはやく書籍になるといい。
永井先生の直前のtwitterで評価されていた
入不二基義「哲学の誤読」(ちくま新書)
を購入。
http://bookmeter.com/b/448006401X




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